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仏紙が問う「なぜ日本の建築家は、自国において亡命状態にあるのか」 | 日本は建築の国なのに… - courrier.jp

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森ビルが手がけた麻布台ヒルズは、2023年11月に開業した Photo: Cato Stroemsvik / Getty Images

森ビルが手がけた麻布台ヒルズは、2023年11月に開業した Photo: Cato Stroemsvik / Getty Images

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Text by Régis Arnaud

フランスでは、日本人建築家が高い人気を誇り、数々のコンペティションを勝ち取っている。だが、日本の大規模プロジェクトでは、彼らの活躍の幅は意外にも狭く、個人や海外からの発注に逃げ場を見つけているという。そのことに気づいた仏紙記者が、日本の建築事情を深掘りする。


日本は「建築の国」なのだろうか。最近のニュースからすると、そう言えそうだ。2024年3月、日本人建築家の山本理顕がこの分野の最高の賞であるプリツカー賞を受賞した。日本でこの栄誉ある賞を受賞したのは山本が9人目で、これによって日本は建築分野を率いる存在になった。世界中が口々に日本のスター建築家を称えている。

特にフランスでは、日本人建築家の人気は高く、権威あるコンペティションをいくつも勝ち取っていて、象徴的な建造物を多く生み出している。たとえば妹島和世と西沢立衛による建築家ユニット、SANAAは「ルーヴル美術館ランス別館」(ついでに言えばパリの老舗百貨店「サマリテーヌ」も)、安藤忠雄はピノー財団による新たな現代美術館「ブルス・ドゥ・コメルス」、坂茂は「ポンピドゥー・センター・メス」(ポンピドゥー・センターの分館)を手がけた。

このフランスにおける存在感は、彼ら自身の国におけるステイタスと比べると対照的だ。実際には、建築家たちにとって日本は素晴らしい活動の場である。東京、大阪、福岡には目を引きつける建物が何千もあり、都市のあちこちに輝かしくも壮大な美しさ、活力にあふれた“いま”がある。


麻布台ヒルズの問題点


瀬戸内海、直島とその周辺の島々には、多くの美術館やインスタレーションが存在し、それらに魅了された観光客が、うんざりするほど大量の写真をインスタグラムに投稿している。だが、この国を訪れる者はしばらくするとあることに驚く。「集合的」という日本の建築の大義をいまも示すような建物(企業の本社ビル、役所、学校など)が少ないのだ。

最近建てられたモニュメント的な建造物を東京で探そうとしても無駄である。すぐに思いつくのは東京スカイツリーだろう。「エッフェル塔よりも高いんですよ」と地元の人は誇らしげに言うが、高いということ以外に面白味がない。

この他に思いつく建造物といえば、丹下健三の国立競技場、東京都庁、山田守の日本武道館などだが、いずれも古い。さらにひどいことに、次々に建設された複合施設が東京の都市の表情を変えてしまった。歴史的には低い家並みが続く都市だった東京が、高層ビルの山塊になってしまったのだ。味気ないだけでなく醜さすら感じさせるビル群が稜線を作っていて、そのなかで目立つものといえば森、三井、三菱などデベロッパーの名前ばかりだ。

「東京が野心的なプロジェクトを実現しようとして見せた最後の努力は、2013年、新しいオリンピックスタジアムとしてザハ・ハディッドの案を選んだことでした。しかし、建設費に関する馬鹿げた論争の犠牲になり、ザハは撤退しなければならなかった。これは残念でした。もしこのプロジェクトが実現していれば、都市の表情が変わっていたでしょうから」と1997年から日本で活動する建築家、リカルド・トッサーニは嘆く。

最新例は麻布台ヒルズだ。店舗、住居、オフィスなどからなるその複合施設は、いわばこの時代の“傑作”である。建築にこぎ着けるため、東京でも指折りの地価が高い地区で30年かけて周辺の土地を集積しなければならなかった。

公式には、建築事務所ペリ・クラーク・アンド・パートナーズの指揮下で工事がおこなわれたが、それは森ビルの管理下だった。結果、出来上がったものは、コンクリートでできた珍妙で醜い混合物、それがまるでミニゴルフ場のようなデザインの庭園の周囲に立ち並んでいるのだ。

「ところどころに創意工夫が感じられるところがあり、このプロジェクトを承認して出資したことについては森ビルを称えるべきでしょう。それでも麻布台ヒルズの悪いところは、全体的ビジョンが欠けているということです」とある外国人建築家は悲しむ。


「没個性」への転落


この点については、二度の東京オリンピックを比較してみるとよくわかる。1964年のオリンピックでは、施設の建設は野心的な建築家たちに任された。そのなかには丹下健三、芦原義信、山田守など、才能の絶頂期にあった者もいて、その作品はいまもなお賞賛の的である。

いっぽう、2020年のオリンピックはゼネコンの熱意に委ねられ、もう忘れられてしまった。新国立競技場がこの傾向を示す良い例だ。このプロジェクトは隈研吾が率いたが、出来上がったスタジアムはオリジナリティーがないものだった。これは隈の事務所が何百人もの建築家を抱えることから生まれた結果である。
没個性に転落したもう一つの例がホテルオークラだ。1962年に開業したこの名高い高級ホテルは偉大な建築家、谷口吉郎の設計によるものだったが、解体されて大手の建設会社、大成建設の手で高層ビルに「再生」された。この「冒瀆」に手を貸したのは、元の建築家の息子に他ならぬ谷口吉生だった。

「ここまで来るとまるで父親殺しのようなものですね」と、ある同業者は酷評する。日本からの発注と海外からの発注があったとき、いまの建築業の現場では、前者の契約条件が手厳しく批判される。

不透明で、都道府県ごとに税負担などに関する規則が異なり、複雑な行政手続きがあるために、しばしばゼネコンの内部組織など大手事務所が有利になるのだ。さらに、しばしば建築家抜きの審査によって業者が決定され、最安値の入札に落ち着く。特に公共事業の場合がそうだ。

「反対に、フランスでは選考委員会は必ず建築家を含まなければならず、そのために建築の文化的機能をめぐる公平感、真剣さが生まれるのです」と、日本人の妻とともにモロークスノキ建築設計をパリに設立した建築家、ニコラ・モローは言う。

「日本の建築家は以前ほど綿密ではないプロジェクトを提案しなければなりません。そのおかげで建築家の仕事量は軽減されますが、それと同時にクリエイティビティーが制限されるのです。また、発注者は経験豊かな業者を好むので、新規参入者のチャンスが少なくなっています」と建築家ユニット、アトリエ・ワンの塚本由晴は憂いを見せる。

過去の忘却


現代はただ無気力なだけではなく、過去を忘れ去りはじめている。法律からも政治からも保護されず、価値ある建物が次々と無情に取り壊されているのだ。

東京の中心、日比谷公園の前にあったフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルは、この建築家の日本におけるもっとも有名な作品で、1923年の大震災も堪え忍んだ。だが、デベロッパーには抵抗できず、1960年代末にもっと機能的な建物に建て替えられてしまった。そしてそれもまた現在建て替え中なのだ。

1924年に建てられた木造の原宿駅は、流行の店ばかりの原宿において見事な対照をなしていた。ところが、2020年から味気ないショッピングセンターへの建て替えが始まり、それに対して不満の声を上げる人もいなかった。ときにデベロッパーは洒落た建物の細部を再利用することがあり、これが建て替えたばかりのぴかぴかの建物の中にはめ込まれるのだ。

あんなに輝かしい過去をもった国が、どうしていまは規範を失ったアノミー状態になっているのだろうか。

「日本の建築家のなかには、小さな事務所で仕事をする人もいますが、100人単位の企業や、1000人単位の建設会社で仕事をする人もいます。建築家が建設会社に属することができないフランスとはまったく違うのです」と、日本の建築事務所みかんぐみの創設メンバーであり、先進的学者であるマニュエル・タルディッツは説明する。

「私のもとで学んだ生徒たちは建築士の資格をとると、この広い振れ幅のどこかに所属することになります。『良い』建築家、『悪い』建築家がいるわけではないのです」とタルディッツは強調する。

この業界内に不寛容な決まりごとがあるというわけではない。しかし、このようにさまざまなタイプの建築家が混在しているということが、結果として安藤忠雄や山本理顕のようなプリツカー賞を独占する事務所には不利に働き、安心できるデベロッパーに有利に働くことになった。

「フランケンシュタイン方式」


ときには二つの陣営が手を握ることもある。権威ある建築事務所がその名声によって建設会社の汚名をそそぐのだ。

たとえば注目を浴びている建築家、藤本壮介は味気ない「トーチタワー」の頂部デザインを担当している。この高さ390メートルのタワーは日本一高いもので、2028年の完成予定だ。このように、大小の建築家チームが折り合いをつけて生まれた建築物が、渋谷駅周辺の化け物じみた再開発のなかに点在していることが、目敏い人にはわかるだろう。

これがマニュエル・タルディッツ呼ぶところの「フランケンシュタイン方式」で、この方式が日本中の都市で用いられている。映画『バットマン』のゴッサム・シティのように非情な都市で、まるで風景の事故のように隈研吾の「ファサード」、SANAAの「広場」が目に飛び込んでくるのだ。

それでも日本には、建築家にとって良いところがまだ残っている。美観以外については厳しい強制的規則のなかに、自由があるのだ。

「自分に割り当てられた空間内で建築家は何をするのも自由なのです」とタルディッツはまとめる。そして実は、日本の町並みには驚くほどにさまざまな形態がありうるのだと教えてくれる。

アンリ・ゲダンは何十年も前からフランスと日本で活動している建築家だが、これと同意見である。「ヨーロッパと違い、日本の都市は常に姿を変えているので、建物の環境を尊重しなければならないという義務を考慮に入れる必要がありません。日本では建築家は、可能な限りの先進的なことができますが、フランスでそれは困難です」

隈研吾はこの極端な創造性と極端な保守性の間の分裂を図らずも体現している。この偉大な建築家も、日本の都市の没個性化を嘆く。

「19世紀まで日本の建築が用いる主な建材は木材でした。日本人はかつての町でまた暮らしたいと思っています。特に若者が伝統的家屋の魅力を再発見しています」

隈研吾自身は神楽坂に住んでいて、そこは東京の中心にありつつ、その魂を失っていない商業地区である。しかし、氏は新国立競技場の設計に名を連ね、この競技場は口を開けた穴のようにその才能を飲み込んでしまった。

ある建築家はこう打ち明ける。「隈研吾をはじめとする建築家のことは理解できます。好きではないオペラ作品であっても、もしアリアを作曲するよう依頼されたら私もアリアを作るでしょう」

こうした建築の「アリア」が、ときに道行く者の目を驚かせて心を奪うのもまた事実である。


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May 31, 2024 at 04:17AM
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